テーマ:不破湊さん

 ふわさんのことを考えることって、やっぱり黛の活動内にふわさんがいる時くらいで、そしてわたしは黛のアーカイブですら視聴する腰が2トンほどあるのでアーカイブをなかなか見ない人間で、つまりはふわさんについて考えることって本当にほとんどない。
 そんな中でも、ふわさんのことをわからないなあと思うことっていくらでもあって、この人よくわかんないなあってことだけしかわからないんだけど、それを理解しようとかしたいとかは本当に微塵も思わない。ただそのわからなさが好きっていう人も大いにいると思う。わたしもそのうちのひとり。

 

 ふわさんのいいところのひとつってぶっ飛んだ思考、まあ言葉を借りるなら「破」の部分だと思うんだけど、それってふわさんの出力の仕方が特殊なだけで、意外とそのインプットにかかる感性については普通なのかなあと思ったりする。「ふつう」を「破る」でふわさん……みたいに思っているところがある。し、本人には破っている意識はあまりなさそう。普通のことを普通にインプットしてアウトプットしているつもりが、アウトプットだけ他者とはまったく違う回路で出てくる感じがする。それをわたしは「わからない」という言葉にして逃げているだけなんだけど、でも理解できないものではあるので、ゆるされたいなーと思う。
 インプットがふつうに行われてることを知っているからこそ、わかっていると思っているからこそ、あきなくんから「ふわっち悩みなさそうとか言われてるけどムカつかないの?!」って言葉が出るっていう可能性もあるし、それはふわさんが「普通に」たのしくやりたいと思ってアウトプットしていることが、ふわさん以外からは特殊に見えて、たのしさを天元突破しているように見えてしまって、悩みがなさそうって言われてしまうけれど……っていう流れで起こっていることなのかな。

 

 ふわさんって基本常に気ぃ遣うんですよ、って教えてもらって思ったのは、気遣うからこそもっと理解されにくくなっているのかも、って。気をつかわれていることに気づけないほど自然にアウトプットに気遣いが混ぜ込まれていると思うんだけど、気遣いは時に壁にもなるから、理解しづらさにも気づけないまま理解できないと言ってしまうのかなあと思う。
 そういうふわさんの根底に関わるレベルの部分に黛っていう存在がいるっていうのは本当によくわからないなあって思う。黛みたいな人間がふわさんみたいなひとのことを好きなのは本当に理解できるし、黛の言葉や行動の隅々からふわさんのことを好きっていうのは伝わってくるんだけど、逆はわたしの中でマジでわからない。でもふわさんの3Dに黛が出てくれなかったことをずっと根に持っていたり、めしや「3人」を異様に大事にしているように見えたりすることっていうのは、「逆もしかり」って話なのかなあって。まあまゆ以外にふわさんがあんな当たり強くする人わたしは見たことないし、それだけでふわさんの深層部分にまゆがいるってことの証明なのかなって思う。それはそれとしてわたしの中の理屈や思考回路や直感にはなじまないけど。

 

 ふわさんって思ってるよりずっとわかりやすい人なのかも、というところまで考えて、3Dお披露目を見返したらほんっとによくわかんねえなって思ったから、わたしにとってふわさんはもうずっとよくわかんないままなのかもしれない。