黛灰の歌とは

2021/8/21

歌わないと思っていた推しブイチューバーが歌うかもしれない。
予告が出た日の晩にこれを書いているのだが、今は衝撃波が少しだけ引いて、色々と考えていたことを思い出したり改めて考え直したりしている。この文章には彼の性格や性質について断定的な発言をしている箇所がいくつも見つかると思うが、すべて前後に「わたしは」「~と思っている」をつけておいてもらいたい。

 

歌ってみたが好きだ。
ニコニコ全盛期からネットを席巻しているその文化が好きだ。ボーカロイドが歌う曲も好きだし、人間の歌声も好きで、それが単に合わさったものとしてだけではない何かの力を持っている「歌ってみた」がわたしは出会った頃からずっと大好きだ。
わたしが歌ってみたを好きなのは、きっと「何者でもない人間が、歌を通して何者かになろうとする」その姿が、その表現方法が好きだからだと思う。だから、正直なことを言うと、歌い手と呼ばれる人たちがやっている歌ってみたとブイチューバーがやる歌ってみたは根本的に、本質からして違うものだと思っているし、わたしは前者の方が好き。
ブイチューバーはもうすでに、存在を赦されたその時から、「その人間」であると思う。そして、ブイチューバーに流行っている歌ってみた文化は、その存在の付加価値を上げるものとして扱われていることが多い。歌を主軸にして、歌うことだけに特化した人でない限り。

 

歌について、みんな気になってる人が多いと思うんだけど。

まあ歌はね、あの時も言ったんだけど、デビューして最初の頃はやろう、と思っていた時があった。その時は、やりたいと言うか、まあやっぱり、なんだろうなー、うーん……。ま、期待してくれてる人たちが多いから、なるべくその期待に応えられるように、形が残せたらいいなと思っていて、あのーあれなんだよね、5万人記念の衣装を出す時に同時に出そうと思ってたんだよね。「準備してるものがあったんだけどどうしてもちょっと俺が出すことができなくて……」みたいな話をしてたと思うんだけど。歌と一緒に出す予定だった本当は。

なんだけど、俺の中で納得がいくものにはならなくって、何度も何度もやったんだけど。ま、本当に多分、もうちゃんと歌ってる人達からすればそんな多くないテイク数なのかもしれないけど、やっぱり、なんだろうなー……、何百は言いすぎか、百何回くらいのテイク数を自分の中で重ねてみて、なんか自分の中でどうしてもこれは作品にならないなっていうのがあって。で、出せないなっていうふうになった、んだよね。まだ、まだ出せるかな、まだ出せるかなって思ってちょっと先延ばしにしてたんだけど、結果その、その結果最終的にね、その、提出ができずに、今なお提出ができずに。うーんその、なんだろうなー、衣装自体も遅れてしまったし、提出もできない状態になってしまってるっていうのは、申し訳がないことではあるんだけど。

ただ、プラス今現状を考えると、なんだろうなー、歌に対しては、だいぶ、その頃に比べてもさらに、俺は消極的になってるし、あんまり、やろう!って言ってくれる人たちももちろんいるんだけど、それに対して二つ返事でオッケーやるわ、とはちょっと言えないようにはなってしまってるから、まああんまり、なんだろ、期待はしないでほしい。

 別に、「歌わないの?黛も歌わないの?」とか、「歌ってほしい」とか言わないでほしいとかでは、もちろん人の希望は希望だから言わないでほしいとはもちろん強制するつもりはないんだけど、ただ、ほとんどないものと思ってもらえた方が、お互い気持ちとして楽かなっていう。

(2021/3/1 「【雑談】近況報告会」より)

【雑談】近状報告会【#ライブハック】 - YouTube

 

歌うことを期待しないでほしい。
黛は確かにそう言った。「歌に対して消極的になっている」とも。それは、(見てもらえればわかるんだけど)普段にもまして言葉が出てこない様子に見えた中ではものすごく本音に聞こえて、わたしとしてはその言葉を大事にしたいなと思った。黛が歌う理由が、「期待してもらえる声も大きかったから」であるなら、そこに対して負い目を感じないでほしいと思った。視聴者の期待から取捨選択して新しいコンテンツを生み出していかなきゃいけないんだろうから、わたしが言っていることは無責任だけど、黛に歌を期待している人だって無責任なことを言っていると思う。だから別にいいと思うし、配信活動をする上で目の上のたんこぶになってしまうくらいなら(たぶんその時点でもうなってたと思うけど)やらなくていいと思った。そもそもブイチューバーって歌うもんなのか?ってわたしは思うし。しゃべってゲームして、そういう在り方で構わないと思った。
ただ黛は圧倒的に「期待に応えたい」というモチベーションを持った人間だから、そして期待に最適解で応えることを自分の真価だと思っていそうだから、歌ってほしいという気持ちに応えられないというそのこと自体もおそらくのしかかっていたはずだ。視聴者に「歌に対しての思い」を素直に吐露してくれたのは、黛なりの申し訳なさもあったんじゃないかとわたしは思う。「歌を期待してくれる人に申し訳ないけど」という言葉がその理由だったと思う。だからたぶん、納得できるものができたならその時はちゃんと期待に応えたいって、そういう風に思っていたんじゃないかな。​

 

俺真逆だわ。演じるのは、全然、一切抵抗ないけど、歌はめちゃくちゃ抵抗ある。

評価されるじゃん、歌ってかなり。演技もわかりやすく評価されるものではあるけど、それに関しては、ある程度心得があるつもりだし、でも歌に関しては心得があんまりないし、わかりやすく評価しやすい。

(2021/6/13「【ゆるゆるバラエティ】緑仙、黛、健屋の放課後サボタージュ 4限目」より)

【ゆるゆるバラエティ】緑仙、黛、健屋の放課後サボタージュ 4限目 #放サボ​​【にじさんじ】 - YouTube

 

「演技は一切抵抗ないけど、歌はめちゃくちゃ抵抗ある。」
歌に関しては心得がないし、わかりやすく評価されるじゃんっていうのが理由だそうで、それを聞いてほか3人は「そっか~」という反応なんだけど、わたしはわかるな~と思って聞いていた。
個人的に、歌は演技だけど演技は歌じゃないと思っていて、両者は似通ってはいるけど全くの別物だと思う。だから黛が演技はできるけど歌はなあ、というのはわかる。なんというか、演技は全く別の人に「成る」ものだけど、歌は別の人の「ふりをする」ものなんじゃないかと思うから。

演技で評価されることが怖くないのは、たぶん、演技でやっているのが別の人になることだからで、評価されるのは「成った人間」そのものだ。黛じゃない。
歌は逆だ。歌った黛自身に評価が向いてくる。それは良いものでも悪いものでも。黛はそれが少なからず怖いんじゃないかと思う。だからこそクオリティを追い求めようとするし、その追い求めるクオリティが高くなるんだと思う。誰が何と言おうと自分の納得するクオリティに届かなければ世に出したくないという黛の性質もあいまって、歌にたいしてきっと雁字搦めになっている。

 

 

黛が提供したいと思って提供してくれるエンタメに対して、わたしは結構な信頼を置いているので、正直なんでもいいしどっちでもいいと思っている。歌ってほしくないんですよね?と言われたことがあるけど、別にそういうわけじゃなくて、歌う黛って想像できなくてわたしの中に確立してる黛像とはなんとなく違うなあとは思うけど、ただ歌いたいと思って歌う分には全然かまわないと思う。そして歌うのならば何かしらの付加価値をつけてくれるんだろうなとも。歌に対して積極的になること自体はうれしい……のかもしれない。混乱していて自分の気持ちが今のところよくわからない。黛が自分を縛り付けてた鎖をひとつ外せて、それが本人にとって良い変化なら、わたしはそれをうれしいと感じると思う。それにたぶん、相手の人選によるところも大きいんだろうなと思う。素敵だね、同期のつながり。

 

こんなこと言わせといて「合いの手:黛灰」みたいな結末だったら本当にしばくぞ。

 

 

2021/9/2 追記

大会期間中に、動画が上がってたんだけど。チューリングラブ。

チューリングラブ……に関して、まず先に、俺の公式の見解、俺の公式の見解をまず、話させてもらうと、俺は、俺の見解は「歌ってない」。

(2021/8/24「【定期雑談#06】V最協振り返り・チューリングラブ投稿された 他」より)

【定期雑談#06】V最協振り返り・チューリングラブ投稿された 他【#ライブハック】 - YouTube

 

歌ってないってことらしい。この後3月の雑談でしてたような話もしてたけど、やっぱり今後も特に歌うつもりはないみたいで、まあ改めて思うのは、黛がしたいようにしてくれたらいいし、その先にあるのが黛が楽しいと思ってやれることならいいなってことくらいです。

 

【歌ってみた】チューリングラブ / ナナヲアカリ【黛灰/相羽ういは/にじさんじ】 - YouTube