霧と話した

どれから書いたらいいかなあ、と思うくらい書きたいものがあるなんて久しぶりだなあ、と思いながら珍しくはなから意欲的にはてなブログアプリを開いています。いや、大抵意欲的に書いてるっていうか、意欲がある時じゃないと書かないけど。笑 どうしても書き留めておきたいことがあるので、短くはなると思うけど今の気持ちを。

 

昨日(5/22)の話なのだけど、幼馴染というべきか、幼い頃からの知り合いの公演に足を運んできました。幸いなことに彼女は自分の公演にわたしを呼んでくれることが多くて、にも関わらずタイミングが合わず、ようやくちゃんと出向くことができた。こんな自分じゃ掴みに行かない機会をもらうことができて、本当にありがたいと言うほかないです。

彼女は声楽を志す人でね。いつの間にそんなふうに、なんというか「本気」でいたのかなんて、疎遠になりがちなこの20年間ほどを過ごしてしまったわたしにはわかり得ないのだけど……、ただただ、"まじで"やってんだな、と思うと、それだけでふと心を打たれた。

日本歌曲とイタリア歌曲の二部構成で、イタリア歌曲なんて特に何を言っているのかわからない(曲紹介の時に概要を説明してもらえたのだけど、その概要が曲のどの部分に当たるのかすらまるでわからない。笑)のに、ひたすらに感銘を受けたというか。歌う前のさ、あの、カチッと切り替わる空気、顔つき、ピンと張りつめた会場を切り裂くピアノの音、小川のように始まっていく物語。何言ってるのかわからないのに惹き込まれるなんて、言葉に重きを置いているわたしにとってとてつもなくすごいことが眼前で巻き起こっていて、ああこれは音楽なんだ、と見当違いであろう感想をぼんやり抱いたりした。日本歌曲は日本歌曲で、言葉がわかる分ぐっと感情移入が強まって、少し泣きそうになった。クラシック、というか、こういう、正を歩むようなど真ん中音楽、ってものに久しぶりにふれて、こういう感性をどうてわたしは学生時代に抱けなかったかな、と思ったり。笑 それは別に劣等感ではないのだけどね、抱けていたらたぶんもっと違う結果になっただろうな、と思う。無意識のうちに忌避したくなっていたクラシックにまたふれて、感動を植え付けてもらえるような機会をくれて、本当に本当にありがとう、と思った。

曲中に演出として、バラを三輪観客に渡してくれるシーンがあって、その時の彼女の顔つきが今でも脳裏に焼き付いている。くっと口角を上げた勝気な笑み、自信家のキャバレーの女王そのもので、あの瞬間会場は本当にキャバレーだったし、心酔するファンの気持ちになった。あれは声楽家という"演者"だった。演者というものは色んなものに分岐する。たとえば俳優。たとえば楽器奏者。たとえば歌手。俳優は演技で、楽器奏者は楽器で、歌手は歌で。扱うツールは違えど、みな表現というものの前で等しく演者であり、それを扱う第一人者であり。強弱で、抑揚で、ビブラートでこぶしで、身振り手振りで、涙で笑顔で表情で。本当に、主軸を置く方法が違うだけの、全く同じことを志す者たち。それが本当に、目の前で行われていることへのえも言われぬ感動。わたしは今、すごいものを目にしているという高揚と、非現実的な世界にどこまてわくわくする子供心。演者と観客というものの前に、優劣も順序も存在しなくて、スケールの大小なんて本当に関係ない、と。そんなことを考えた。

表現。本を読み漫画を読み、アニメを見てドラマを見て映画を見て、コンサートに足を運び、写真を撮り。表現なんて本当に多種多様で、わたしはそのどれもを愛したい、と思う。ただ機会をもらえないとふれることすら自分で行えないという怠惰があるのも事実で、何度も何度も言うけどこんな機会をもらえたのは本当に奇跡みたいにありがたいことだった。

わたしは言葉をこれからも扱いたいし、表現者というものを名乗ることはできそうもないけれど、ただそのなり損ないとして、彼女と同じ舞台に立てたら、見える景色が少し変わるだろうか、とそんな幻想を抱く、日曜の昼下がり。本当に本当に、きらきらした出会いをまたひとつさせてくれて、ありがとう。