ここまで言っても許されるんだって思ってた

ブログタイトル変えました( ᐡ. ̫ .ᐡ )笑

 

テレキャスタービーボーイから得るあきなくん(とされている人間)がやる歌ってみたとあきなくん自身に対してのふわっとした推測

歌ってみたをやる人って、全員じゃないけど、往々にしてものすごくアンバランスなんだと思うんだよー。なんかこれあきなくんのこと言ってる感がすごいけど。笑 あきなくんってどこまで他人に認められてもずっとずっと自己肯定感低いままなんだよねえたぶん。絶対よくわかんない鬱に殴られてる夜があると思う。そういうあきなくんがやる歌ってみたってものは、あきなくんのストーリーなんて付加しなくたってめちゃくちゃ輝いてて、あきなくんはその瞬間だけきっと安堵できる。(でもたぶんその瞬間にいられない、そう在ることができない時間の方が当たり前に多くてそういうときにバカ病んでるんだと思うけど。笑 メンヘラだね〜💘)そういうあきなくんは頼りなくて情けなくて、だからこそめっちゃかっこいい歌ってみたができる!とわたしは思う!あきなくんが歌を好きでいてくれて嬉しい!もっともっと歌ってみたをしてほしいな!なんか最後あきなくんの話になっちゃったね。

前回書いた、って言ってもつい2、3日前の話だったからうわ〜……って思ったりした。ていうか断定的な物言いをしすぎていて本当余白のない人間だなわたし、と思ったし、だけどやっぱりわたしはわたしの書く文章が狂おしいほど好きなんだろうなーって思った。根本のところで、文章に自信なくなったことあんまりないですね。文章自体は本当引くほど下手なんだけど、でも気持ちだけは100パーセントで書き起こしておきたいっていうのをいつも感じるし、思ってることを思ってるままに、ときに必要な寄り道もしながらきちんと言語化をしていけるのは自分の良さかなーって思ったりした。そのこと自体もそうだし、わたしがそもそもそう思っていられるのは、その時々でたくさんわたしと交流をはかってくれる人たちがいつだってわたしの文章を受け入れて好んで愛してるよって伝えてくれるからこそだなあと思います。ありがたいなー。冒頭から全然別の話をしてるね。こないだ父から「お前は文章のセンスがいいから、もっと本を読んだらいいよ」って言われたのがめっちゃ嬉しくて今本が読みたい!ってなってるチョロ人間なこともあわせて書き記しておく。

話を戻します。前回書いたこの話についてもう少し深く考えてた。きっかけは、昨日(ここを書いてる現在は10/7だけど実際一体いつ上がっているのかは不明)テレキャスタービーボーイがぷろせかくんに実装されて、そのセカイバージョンを聞いていてウーンって思っちゃったって話から始まる。一昨日HARDのプレイ画面見た時からなんかオケが小さい気がしてて、で、実際やってみたらやっぱりオケが小さい気がした。あとなんか……なんかなー、わたしやっぱりこの曲のサビの盛り上がり感が好きなんだけど、こう……合唱みたいなユニゾンをされるとなんかなー違うなーってなっちゃったんですよとにかく。ワンダショの良さって個人的に歌にはそこまで寄生しないと思ってて、いや曲はもちろん良さとして存在してるけど、やっぱり合う合わないはっきりわかれちゃう気が今回改めてしたな。えむちゃんの声って良くも悪くも子供っぽいから……。正直なところボカロ向きじゃないんですよね。ボカロPが作る曲って往々にして人生ぶち壊したいみたいな感じというか。笑 あのなんか、全部に絶望した果てにとにかく死にたい、とか、めっちゃかっこいいバンドサウンドなのにサラーっと死にたそうとか、サラーっと絶望してるとか、なんかそういう感じのニュアンスが表現されることが多いと思ってて。テレキャスも例外じゃなくて、何とはなしにサラーっと人生の「無理」が詰め込まれてる感じかなって思うわけだけど、それってえむちゃん個人の雰囲気にも、ワンダショ全体の雰囲気にも合わないなって思う。やっぱりボカロでカバーやるなら、それこそ実装されてる「ぼうけんのしょがきえました」とかがいいなーって思う。底なしの明るさというか。見る人に元気を与えるってテーマで進んでってるからこそね。つまりはテレキャスのセカイバージョンはあんまり好んでなくて結局オリジナルバージョンでプレイしてるよって話なんだけど。それだけでなんでここまでウーンってなってるかってことよね。少し前の回想シーンから始めちゃうけど、この曲に初めて出会ったのってあきなくんの歌ってみたなんですよね。そしてあきなくんというブイチューバーに初めて出会ったのもこの曲なんですよ。あのこれ、誰も読んでないと思うから言うんだけど……あきなくんの前世と名高い(名高い……?)人がやる歌のことをわたしすっごく好きだったんですよね。だからこの曲を聞いた時、彼に再会したような気分だったんだけど。かなしい話、ブイチューバーを好きになるきっかけにすらなってしまってる曲なんだけど。笑(マジできっかけに過ぎない。大した思い入れはないです。笑) そんなあきなくんが歌ってるテレキャスは、出会った時からずっと聞いてる大好きな曲なんだけど、まあ言ってみたらパブロフの犬的なことで、テレキャスと言えばあきなくんなんですよね。だからあきなくんのテレキャスが恋しいなーって思ってたところからあきなくんの話をするんだけど!笑 やっと本題かよ。

すごく熱かったんです 想像してたよりずっと、ステージの照明って熱くて それ以外よく覚えてなくて ただ、ここまで言っても許されるんだって思ってた あの感覚を上手く言えないんですけど…… もう1回ライブがやりたい

ギヴン2巻とかあたりのどっかの真冬のセリフでこれを言っているところがあったんだけど……。突然何の話始まったんマジで。でもわたしこの言葉がすごく好きでね。これからバンドとしてどうしていきたい?って聞かれた時の真冬のセリフなんだけど。「ここまで言っても許されるんだって思ってた」この言葉がな〜……すごく好き。わたしも音楽でステージに立ったことってあるんだけど、それって大したことないって気持ちといつも隣り合わせだったし、てかそもそもわたしってわたしがやってた音楽のことあんま好きじゃなくて。笑 だからステージに立つ熱さを、音で表現する熱さを実感としてわかることはないんだろうなって思うんだけど、この言葉で理解をさせてもらえるような気がするんだよね。音楽が自由に生きるための術である人、自由になりたくて音楽に手を伸ばす人、表現をそれしか知らない人。そういう、音楽(に限らないと思うけど今は音楽の話をしてるのでそこをズームする)が生きる道の上にある人っていうものの感情を全部担える言葉だと思ってて、だからすごく好き。

で、何が言いたいかっていうと、わたしはあきなくんに少しだけこれを感じるな、と思うんですよね。なんていうか、あきなくんってもしかすると「ここまで言っても許されるんだ」の感覚を知っている人なのかもしれないな、っていう。上手く言えないのはわたしもなんだけどあきなくんから、彼自身があきなくんってものであることを望んでいる感じを受け取ったことってわたしあんまりないんですよね。三枝明那ってものが、周りからの需要と、自信ってバケツをひっくり返したまま持ってるかのようなあきなくんをやるその人性質とたまたまマッチングしたから生まれて、ただ生き続けてるっていうふうに感じる。時々だけどね。自信がないから、対他者になってしまうと途端に、本当のところで言いたいって思うことをうまく言うことも、叫び出したくなる情動をさらけ出すこともできなくて、くるしいってきもちを抱えてるんじゃないかなって思ってて、それが前回の言うところの「よくわかんない鬱に殴られてる夜があると思う」って話なんだけど。あきなくんはあきなくんを取り払った"そのもの"で愛してもらう自信がないのでは、と思う。そういうあきなくんが自分のことを存分に表現できるのが歌ってみたなのかなって。「ここまで言っても許される」感覚が、それを受け入れられるって感覚が、あきなくん自身の根幹を受け入れてもらえてるって感覚に近しいところにあって、あきなくんが歌だけはずっと好きでいられるのはそういうところなんじゃないかと思う。正直なところ、あきなくんは慢性的愛不足だと思うんだけど。笑 わたしも自己肯定感低かったけどさー、毎日毎日対自分のでっっっかい愛情にふれてたらあんまり自分のこと卑下しなくなったよ。だからあきなくんもね、できればそうやってあきなくんってものを被らないでもでっっっかい愛情にふれられるような機会がね、常設展示されてるといいよね。日常で。まあそれってあきなくんの「枯渇」が消え去って彼からのエンタメも消滅するってことになりかねないとは思うんだけど、ただ精神的に健康でいてくれたらなーって。いやあきなくんのオタクではないよわたしは……。笑笑笑 今あきなくんのテレキャスのコメント欄怖いもの見たさで見に行ったら「アッキーナは友達になりたいナンバーワン」って書いてあって正気か?!って思った。笑 あの人そういうこと言ってくる人とは友達になれないと思うよ。知らんけど。あきなくんのオタクじゃないし。。。

 

〇フォロワーに小説を書いたよ

 その光景を初めて見たとき、私は、呼吸というものが実態を持って存在していることを知った。同時に、こんなにも熱い情動と冷たい当たり前が違和感なく共存しているその様を、私が生きてきたこれまでも、そして生きていくこれからも、知らないでいたかもしれないこと。それが途轍もなく怖くなった。

 はあっと、やっとの思いで息を吐いた。人の密集した暗いスタンド席でそれは、波の間を縫い、簡単にどこかへと消えていって。だけれどそんな私なんてお構いなしに、彼女は踊る。感情が動いている、と、今まで何度でも感じてきたことを、性懲りもなくまた思った。人の形をした感情が、まったくの無我に近づくように動いている。滅茶苦茶な矛盾を抱えた人型は、ライトの光に照らされて蒸発し、音という虚構にのせてどんどん角をそぎ落とされていく。それを刮目している今この瞬間が、どうしようもなく心地いい。何千回目のそんな実感を手のひらの中に握りしめた。

 何度見ても息を飲む。テレビで。体育の授業で。日常のどこかで。人生でいくらだって目にしてきたはずの踊るというその行為。何とも思ったことはなかった。授業でやった時は、さすがにダンスができる人ってすごいな、とか、息を切らしてぜえはあしながら心底思ったりもしたけど。アイドルが踊ったキャッチーな振り付けを真似してみたりもしたけど。この振り付けかっこいいな、と音楽番組を見ている最中にぼんやりと考えてみたりもしたけど。違う、と言うのはそれこそ「違う」のかもしれない。彼女のダンスと私が今までで触れ合ってきたダンスとを決定的に違えてしまうことは、めぐりめぐって私が愛する色々まで全部傷つけるような気がする。そうやってぼんやりとでも考えたことを持って、私は来る日も来る日も彼女のいるステージの前へと向かう。まるで対抗するかのように。

 照らされた彼女は、水を得た魚のように、光も、音も、私の心も足蹴にして舞う。それを見れば、間髪すら入れさせてもらえないままに、考えるなんて無駄だと知る。この感情を前にして人は踊るしかないのよと、彼女が笑って、負けを悟る。音を音として、光を光として。彼女が捉えた五感が空間に少しずつ飛び散っていく。いつの間にか、曲は終盤を迎えていて、はたとそれに気づく時はいつも、ああ、世界の裏側を覗かせてもらっているみたいだったなと、そう思った。

 


 言葉にならない、言葉にできない、言葉にしたい。もっと見せて、もっと見たい。視覚も嗅覚も聴覚も、使える感覚全部を彼女につぎ込む。全部で踊る彼女の気持ちを、できるだけ取りこぼさないでいられるように。

 地下の暗がりを抜け、地上の明るみへと戻るとき、私はまた前を向ける。そんな気持ちを、文字ではどう表すのか。いつか彼女に届けてみたら、あなたはどんな風に踊るだろう。宵の明星への階段はまだ、長く続いている。

「フォロワーをイメージした小説の書き出し」をご注文いただいたので書いた。フォロワー……もうめんどいから固有名詞で呼ぶんだけど、みつあみさんにこれをお願いされてやろうと思った時から実はダンスの話を書こうと言うのは決めてた。ていうか、わかってはいたけど、でもそれを遥かに凌駕するくらいめちゃくちゃ難しいって体感があった!小説を書く時いつも思うんだけど、わたし本当に想像力がないなーって。笑 他者のことなんてわかんないんだよね。それが近しい人であればあるほどそうで、この人が何考えてんのか全然わかんないけど、わたしにとってめっちゃ居心地のいい空間でいてくれるな、ありがたいなーっていうわたしの気持ちだけで友達でいられる(いてもらえてる)から、マジでみつあみさんのこととかなんもわかんなくてしぬって思った。笑 理解できたとしたら理解したいっていう気持ちはあるんですけど……。なんていうか、理解してわたしの中に取り込んだ瞬間にわたしのものになるってことで、それはもうみつあみさんっていう個じゃなくなっちゃうかなって。それをわたしが彼女のものして描くのはあんまりにも傲慢ってものでしょってなっちゃって。まあ安易な逃げなんだけど。笑 二次創作はね、題材が架空の人(もしくはそれに限りなく近しい親近感のない人)だから。それをわたしの好きなように動かしても罪悪感もモヤモヤもあんまりなくて。ただそれはわたしのものであって公式のものじゃないなって思うから、結果これは何?みたいなことを常々感じる羽目になって頭上にはてなマーク浮かべてるわけだけど。笑 でもやっぱり、みつあみさんってわたしの体外にしっかり、地に足つけて生きてるわけだから、そういう人のことにわたしがなりきって書くのは無理だな、って思って、彼女を主人公にして話を書くのはやめた。わたしの書く小説っていつでもそうなんですよね。わたしはわたしの思ったこと感じたこと見たもの聞いたものしかわからないから、それしか書きようがないっていう。

ダンスのこと書こうって思ったのは、みつあみさんがいつだったか電話か何かで「わたしダンスっていう表現方法がいちばん好きなんですよ」って言ってたことがずーっと頭に残ってて、なんかいいなあって思ってたから。それでなんとなくダンスをするみつあみさんのことを書きたいなあって思ってた時に、彼女のブログの最近の記事でダンスは無性に近いところでいられてすごく安心するっていう話がされてて、あー、これかもしれんってなりました。みつあみさんのダンスを見るわたしってものを書きたいなーってぼやっと思い浮かんだら早く書きたくて書きたくて仕事中におわー!!ってなった。笑笑 仕事しろ。

わたしは表現としていちばん好きなのは言葉だなーって。なんでだろ、いつからだろ、わかんないけど。ただなんとなく言語化って安心するなーっていう。人のそれがどうというより、自分の気持ちを小説でもブログでもツイッターでも、どんなツールを通してでも、言葉で見える化していくのが好き。やっぱり中高とかくらいからずっと言葉を褒めてもらえる環境にいたからだろうなーって思う。冒頭の話に戻っちゃってるけど?!笑 だからみつあみさんがダンスで表現するものをわたしが言葉で表すっていう、そういう話にしたい!って思って、できあがったらクソキショポエムだったからひっくり返ったわけ!爆笑 本当笑えねえよ。みつあみさんのダンス見たことないしさ。でもまあこれってみつあみさんにしか送らないし、どうせわたし向けにわたしがここで補完するからいいやと思ってちゃんとした設定入れないままポエム書いたわけだけど、実のところとあるダンサーに焦がれるライターっていう設定なんですよね。ちゃちく嘘っぽくなりそうだし、それに加えて話がややこしくなりそうで出会いとか省いちゃったんだけど。笑 何かしらのきっかけでダンサーに出会ったライターが、初めて自分が書きたいって思うものを見つけて、それを少しずつ少しずつ言葉にしていく、みたいな。言葉を操る職業なんだから、彼女のダンスがそこにある衝撃とか情動とかを言葉にできないはずなんてないっていうプライドをダンスを見る度にメッタメタに折られるあの悔しさと快感と、みたいなのをね……書きたかったんだけど。伝わんねーな。笑 ここで補完してるからいっか。いつかこのライターが彼女のことを鮮烈に誠実に丁寧に言葉で描きとるとき、それはまるでラブレターみたいになるんだろうなって思ってね。それを受け取った彼女はどういう顔するんだろうって。表現をさらけ出すって怖いけど美しくて楽しくてたまらないものだよって初めて教えてくれたのが彼女のダンスだといいなって思います。

あとみつあみさんがブログで書いてたダンスの話を読んで、なんとなく「あーこの人は音を音として受け取ってるな」って思ったから、それも入れたかった。(死ぬほどわかりやすく入れてる。)わたしは結局のところ音を音として捉えることってなかなかできなくて、やっぱり言葉のない曲を聞いていると、「……」ってなる。わたしは音楽を音程と言葉だと思ってるんだと思う。だけどたぶんダンスをする人って違うんですよね。自分がする表現の下地になるものだから、言葉があろうがなかろうが、それが母国語だろうがそうでなかろうが認識できようができなかろうが関係ないのかなって。それってなんか、脳だけじゃない、五感全部で世界を感じ取ってるみたいでいいなあって思う。かっこいいなー。わたしにはなさすぎる感じ方だから、そういうのを描きたかったんだけどさー、無理だなー。笑 やっぱりぼやっとした話を書こうとするとどうしても言葉が下手になるから、もっと具体に落とし込んだ話を書くべきだったんだけど。でもやっぱり実在の人をテーマにして書くのはマジで難しくて無理!なんんんにも浮かんでこない!笑 いつもは違うんだよわりとポンポン浮かぶし光景も見えるしセリフもすぐ浮かぶし感情もちゃんと宿せるんだけど……。小説ってムズー。。。やっぱりもっともっと修行だわ修行!あとがきみたいなの書けてよかった。みつあみさんこれ読んでたらキモイな……って思ってね。笑

 

〇友好的なフォロワーができてビビる回

二次創作の方のツイッターアカウントで繋がった人と今度通話しながらのみんライするんだけど、めっちゃビビってる。おにの人見知りなのに!ねえ!笑 こういう感じでお友達?お知り合い?ができるの久しぶりすぎて怖いなーって。でも楽しみでもある。3人で通話する予定なんだけど、3人って難しくない?上手に回してくれる人がいないとさ。不安だ……人見知りなのに……。笑

もっと若いとき、たぶん10代の頃に、ネット陰キャの友達に「話しかけられて嫌な人なんていないんだから仲良くなるには話しかけまくったらいいんだよ!」っていう傲慢な上に怖いもの無しすぎる発言をしてたのをふと思い出したんだけど……。笑 今文字にしたら死にたすぎるな。でもまあ間違ってないかなーって思う。話しかけまくるより仲良くなる方法とかないよね。ましてや文字上の関係なんだから。でもこんな怖すぎる発言しない方がいいマジで黒歴史すぎる間違ってないけどさ?!

 

〇黛の誕生日ボイス買ったよ

2020も2021もとりあえず購入した。お、オタクとしてのね……気持ち面を満たすために。買っただけでまだちゃんとは聞いてないんだけど、聞いて何か思うことがあれば書き残しに来ようかなーって思う!